白い簡易ベッドから身を起こして時計を見ると、午前5時50分定時。
思わず、感嘆ともつかぬ吐息が漏れた。
「習慣とは恐ろしいもんだな…」
普段なら自分の部屋で、ラビエールのノック音で目覚めるのを、今日は診療所で繰り返してしまった。
もはや刷り込まれていると言っても良い。
早々に身支度を整えてベッドを降りれば、着いた足からひんやりとした床の感触が伝わってきた。
伸びをしながら診察室を突っ切ろうとすれば、薬品を抱えた白衣の男とかち合った。
こいつも早起きだなと思って眺めれば、ヒーデンリヒは俺を見るなりけっと言った。
「……早く私の家から出てってくれないかな、イーヴィル・ブラッド・レインさん。超絶に邪魔だ」
「朝は迷わずおはようから始めろよ、ヒーデンリヒ・カルマン」
バチッと火花が散った。
阿呆臭くなって、俺は早々に目を逸らして言う。
「朝飯は、……出そうにないな」
医者は、薬品棚を整理しながら応じた。
「此処は診療所だホテルじゃない。ラビちゃんっていう可愛い患者さん以外の食事は用意するつもりもない。健康な人間は、自分で如何にかしたまえ」
いっそ清々しいくらいに言い切る医者……というか、医者失格の人嫌いを横目で見て、俺は仕方なしに近くのブレッドを咥え、珈琲ポットを探した。
もさもさと咀嚼し、ほぼ味のない珈琲でそれを胃に流し込んで、ぼんやりとテレビを眺めれば7時半。
部屋を見回せば、医者の姿はない。
朝刊でも取りに行ったのかもしれない。
否、それともラビエールの朝食でも作っているのだろうか。
そんなことに思い至れば、当然のようにあの医者がラビエールを起こしに行く図が浮かぶ。
俺は顔をしかめてマグを置いた。
それだけは、何としても避けたい。
あの変態医者に先を越される前に、俺はラビを起こしに行くことにした。
病室の前でふっと思いついて、あいつの真似をしてみた。
まず、扉をノックする。
とんとん。
「ラビエール」
声を掛けれど、返事はない。
ま、当然だな。
俺はまた軽く拳を扉に打ちつけた。
小さな音が響く。
とんとん。
「入るぞ?」
病室の中に足を踏み入れればすぐに飛び込んでくる白いベッドと、其処でぐっすり眠る少女。
カーテンから漏れ出した日光が帯となって、彼女の長い金髪を照らしている。
俺はそろそろと静かに部屋を移動して、枕元の回転椅子に腰掛けた。
此処からだと、少女の胸が規則正しく上下するのがよく見えた。
ラビは仰向けのまま、唯、夢に沈んでいる。
そういえば、今までこうしてまじまじと見ることもなかったな、と俺は頬杖をついて相手を眺めた。
桜色の唇がすうすうと寝息をたてる度、ラビの長い睫毛が微かに震えた。
思わずその柔らかそうな頬に手を伸ばして、はたと自身の手に当てられたガーゼの存在に気づき、俺は躊躇う。
結局そのまま相手の頬に触れることなく手を下ろし、俺は言った。
「ラビ、朝だ」
俺の声に、ラビは微かに眉をひそめる。
目を閉じたまま、彼女は小さく呟いた。
「う……? こく、りゅ…し」
もぞもぞと横を向いて、猫のように丸くなった彼女は嫌々をした。
「あと…5分だけ……」
俺は溜め息をついた。
5分だけって、5分もありゃ今度はあの医者が朝っぱらからセクハラ紛いなことしにくんだろラビエール。
俺は少女の顔にかかった金髪を耳にかけてやりながら言った。
「起きろ。寝るんならせめて、朝食を食っちまってからにしてくれ。でないと、てめぇが医者に食われんぞ?」
ラビはもすっと枕に顔を埋めて、小さい子供のように駄々をこねた。
「やぁ…っ」
くそ、こいつ寝呆けてやがる。
俺は手を引きながら、上気し始める顔を背けた。
「そんな声出されてもな…」
無理に起こすのやめようかと意志を砕かれながら呟けば、不意にベッド上の可愛い生き物が空中に泳いだ俺の手を掴んだ。
「い、ゔぃさん…? ……んう」
声にようやく反応したのか、ラビはもごもごとそんなふうに俺を呼んで、両手で俺の手を抱き込んだ。
驚いていると、ラビは目を閉じたまま眉尻を下げて、また嫌々した。
「どっか行っちゃ、イヤ…っ」
「……おまえなぁ…」
俺はがしがしと頭をかきながら、浮かしかけた腰を元の椅子に下ろした。
これでは、部屋を出ていけないではないか。
かと言って振り払うことなど、今の俺には到底できそうにない。
仕方なしにされるがままになっていると、ラビは俺の方を向いたまま、再び幸せそうな顔で寝息をたて始めた。
横向きに寝た彼女は、その小さな両の手でしっかりと俺の手を握り締めている。
チビの癖に無意識だからだろうか、力が強い。
せめて緩めるくらいのことはしようと、空いていた手を相手の小さな手にそえた。
「おいラビ、…痛い。そっちは負傷中だっつうの」
小さく文句を言うと、ラビはううんと唸って握り締めた俺の手に頬を寄せた。
擦り寄せられたそれは、陶器のようになめらかで、そして陶器よりもずっと温かかった。
ラビの唇から吐息と共に俺の名前が吐き出される。
艶を帯びたそれに、手の痛みなど一瞬でぶっ飛んだ。
……こいつの潜在能力は、人より高いと見た。
今度こそ俺は、足掻くのをやめた。
相手に触れられたところがまるで熱いものにでも触れているかのような錯覚を感じ、俺は空いている手を自分の額に当て、続いて少女の額に当てた。
……。
…………いやいやいや、むしろ今は少女の方が体温は低い。
ラビに触れられて、俺の方が熱が出そうだった。
不意に嗚呼と納得して、俺は少女に言った。
「てめ、寒いんだな? 寒いからどっか行っちゃ嫌だの、俺の手を掴んだりだのと」
ラビは俺の声が疎わしかったのか、俺の大きな手を盾とするかのように顔を隠してしまった。
その様子は、さながらコタツに隠れたがる猫のようである。
腕を引っ張られた俺は、やれやれと呆れた。
「暖の取り方、間違えてんだろ」
「うにゅ…」
うにゃうにゃとわけのわからない寝言の後、ラビは本当に寒いのかこの家の主に訴えた。
「ひぃくんん……あっためて…」
コイツ、聞き方によってはとんでもねぇことを口走りやがった。
「今度は暖を乞う相手を間違えてる! 其処はヒーデンリヒじゃなくて、湯たんぽか空調機に求めろよ!!」
こんだけ叫んでも、ラビは起きようとしない。
肩で息をしてジト目で睨むのだけれど、やっぱり彼女はすやすやと静かに眠っている。
コイツを湯たんぽに取られるのは大いに結構だが、ヒーデンリヒに取られるのだけは死んでも御免だ。
手を引っ張られ半分中腰になった体勢はしんどくて、俺は靴を脱いで寝た子を起こさぬようベッドの空いている場所に足をかけた。
そして、そのままラビが向いている方とは反対のスペースに、仕方なしに横たわる。
所謂、添い寝状態だ。
少女の背中を眺めながら、俺は掴まれていない方の手を少女の首筋に伸ばした。
「ラビ」
触れた肌の冷たさに少し驚いて、俺は部屋の空調機と少女の腕に刺さった点滴と、扉の方を順に見て溜め息をついた。
……後でもう少し部屋の温度を上げるよう、医者に進言しようか。
そっと後ろから小さな体を包み込んでやると、とくとくと弱々しい心音が伝わってきた。
なんて頼りない。
なんて脆い。
強く抱き締めたら、壊してしまいそうだった。
低い体温の彼女は雪のように消えてしまいそうで、俺は唯、そのまま緩く少女を腕の中に閉じ込めて、その耳に囁いた。
「…早く、治れ」
寝呆けまなこのラプソディー
(っだあああ! 朝からその娘に何してんだ、この変態マフィアーーーッッッ!!!)
(…うるさいぞ、コイツが起きんだろーが。大体、変態に変態と言われたくない。心外だ)
(言った途端、本物の手術用メスが飛んできて)
(そんな騒ぎで少女の睫毛が震えて、ゆっくりと目を開いた)
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