「どど何処へ行くんですかっ?」
私は恐る恐る、前を歩く男の人にそう聞いてみた。
前を歩く男の人というのは、数週間前からお世話になっているイーヴィル・B・レインさんという人である。
彼はちらと私を微かに振り返ったものの、歩調を緩めずに私の腕を引っ張っていった。
「別に変なところに連れてきゃしねえよ、安心しろ」
素っ気なくそれだけ言って、イーヴィルさんは長いコンパスで歩く。
私は小走りになりながら従った。
沈黙が何となく痛くて、きゅっと金色のカメオを握り締めて思った。
……私は一体、何処に連れてかれるんだろう。
思えば、朝イーヴィルさんを起こしに行ったり、昼麻桐さんが出した宿題である本を読んだり、夜ふたりの会話を聞きながら社長室でご飯を食べたり、と穏やかに日々は過ぎていた。
その所為で忘れてしまっていたけれど、私、この人達のご厄介になっているのだった。
つまり彼らにとって私は、縁もゆかりも無い赤の他人。
当然、私の世話を焼く義務もなく。
(嗚呼きっと私、孤児院に連れてかれるんだ)
そんな確信めいたものが閃いた。
それと同時に、何故だか寂しくなった。
何故だろう、やっと知らない人から解放されるのに。
きっと外にも普通に出られるし、学校にだって通えるようになる。
それなのに……。
「っと…おい、何つう顔してんだよ」
不意に立ち止まる相手を見上げれば、男の人は驚いたように目を見開いていた。
私はその紅い瞳をまじまじと見つめる。
如何して私、あなた達と離れるのが嫌なんだろう。
(折角、近づけた気がしたのに……またお別れ、なのかな)
この親近感は、私の勘違いなのだろう。
皆そうだった。
周りの大人は、皆そうだった。
育ての親を除いては。
私には、彼だけだった。
その彼も、もういない。
紅い目の男の人は、困ったように長い灰色髪をかき上げて言った。
「変なとこ連れてかねぇよ。そんなに信用ねぇか、俺? ……あ、俺が歩くの速かった所為か。悪ィな、普段からこんなんだ」
如何やら彼は、私が疲れているものと勘違いしたらしい。
私は唇を噛み締めてうつむき、ふるふると首を横に振った。
カメオを握りしめる手に力を込めれば、イーヴィルさんは私の腕から手を離して、ばつの悪そうな顔をした。
「あ~~~っと…その、何だ……もうすぐ着くから、我慢してくれないか? それとも、もう限界か??」
私は相手を見上げて、弱々しく笑った。
「私、平気ですから。……お気になさらず」
「……」
彼は何か思案するように顎に手をそえて考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「おい、小娘」
急に言われて、びくりと肩を跳ね上げる。
「はっ、はいっ!? 何でしょう?」
「ルート変更」
短くそう言って、男の人は再び私の腕を掴んで右の細い路地へ入った。
つかつかと彼はやはり私を先導していく。
けれどその歩調はずっと遅く、緩やかになっていた。
ざわめきが聞こえる。
私は唯、わけもわからずそのざわめきに向かっていった。
人の話し声、笑い声、音楽、足音。
聴覚からやがて視覚へ。
赤い提灯、出店、人波。
呆然と呟いた。
「お、まつり…?」
私の呟きは、客引きの威勢のいい声にかき消された。
イーヴィルさんは近くの出店のおじさんにコインを手渡して、代わりに薄青いガラスの瓶をふたつ受け取った。
そのままさっさと大通りを突っ切って、背の高いオフィスビルへすたすたと歩いていく。
「い、イーヴィルさん、あの……」
呼び慣れない彼の名前を口にすると、彼はオフィスビルの非常階段の扉を足で蹴り開けて、私に瓶をふたつ突き出した。
「持っとけ」
「えっ? あ、えっと」
手に押し付けられた瓶を落としそうになりながら抱える私に目もくれず、彼は階段口に置いてあった黒い大きな鞄を肩にかけて、指で私を呼んだ。
「エレベーター使うとバレるから、屋上まで足だ。来い」
彼のローファーの音を聞きながら、私は不思議な気分でついていった。
「……。………ほんっとおまえ、体力ねぇのな」
若干呆れつつ、イーヴィルさんは屋上にへたり込む私の頭に軽く手を置いた。
結局、黒い鞄に加え、青い瓶ふたつも彼が持ってくれていた。
私は汗を拭いながら天を仰ぐ。
「はひっ…はひっ……す、…すいません……」
平謝りすれば、ひやっとしたものが私の頬に触れた。
思わず物凄い勢いで跳ね起き、立ち上がる。
「ひゃんッ!?」
自分の変な声に慌てて両手で口を塞ぐと、きょとんとしたイーヴィルさんとかち合った。
彼は、私と私の頬に当てた瓶とを交互に見て、首を傾げた。
「そんな驚くほど冷えていたとは」
「あ、いやその、そんな冷えてないです!」
慌てて言えば、彼は微かにふっと口元を緩めた。
「変な奴」
私が呆けたように見惚れていると、彼は手に持った瓶をひとつ私に差し出して言った。
「ほらよ、おまえの分だ」
よくわからないまま受け取れば、青く細長い瓶の中で液体が煌めいて、しゅぱしゅぱ弾けた。
歩いた分のご褒美みたいだった。
突っ立ったままでいると、彼はちゃっちゃと黒い鞄を下ろして手際良く中身を広げ始めた。
ブルーシート、パソコン、よくわからない機械。
長い筒のようなものを手にした時、イーヴィルさんは眉をひそめた。
「麻桐の奴、天体望遠鏡なんか入れやがって。遠足じゃねえんだぞ……」
悪態をつきつつも、丁寧にそれもまた組み立ててブルーシートの隅に置きながら、彼は思い出したように私を振り返った。
「で? てめぇはいつまで其処に突っ立ってる気なんだ?」
心底迷惑そうな顔をされたので、私は息を飲んだ。
「何か手伝うことありますかっ!?」
叫ぶように聞けば、溜め息をつかれた。
「違う! 別に手伝わせる気はねぇ! 其処らで休め。つうか座れ。何のためのブルーシートだと思ってんだ、俺の必要性じゃねえぞ。『てめぇが来るから』用意させたんだ」
「は…」
目が点になった。
おずおずとブルーシートに正座をして、私は忙しそうに動き回る相手を目で追って言った。
「あの、話の筋が見えないのですが……如何して私、こんなところに…」
「ぁあ??」
荒っぽくパソコンを起動させて、紅い目の男の人はどっかと私の前に腰を下ろした。
彼は肩を竦めた。
「仕事ついでに、外の空気を吸わせてやれってさ。俺のボスからの御達しだ。てめぇだって数週間も監禁じゃ、気が滅入るだろう?」
「それは…」
私は戸惑う。
彼は構わず、自分の瓶の蓋をぽんと音をたてて外した。
しゅわしゅわと白い泡が瓶の中で煌めく。
「俺だって保護した人間、それもてめぇみたいな人畜無害な奴を閉じ込めておくのは心苦しかったんだ。悪人なら兎も角よ。だから今夜は、散歩と洒落込んだ。ちょうど祭りだし、香港の景色もそんなに悪くない」
ん、と彼は瓶を煽りながら周りを手で示した。
私は男の人の指し示す方を目で追い、そして息を飲んだ。
今の今まで気づかなかったがそれは……絶景だった。
オフィスビル近郊は、華やかな赤と黄の光に包まれている。
さっき見た祭りの光だ。
少し離れれば、天の川のように流れる色とりどりの光と青白い線。
あれはきっと高速道路とブリッジだ。
流れているのは車だろう。
このオフィスビルを取り囲むように、それは闇を切り裂いて疾走していた。
「わあ、凄い……きれい」
図らずとも漏れる感嘆の溜め息に、相手は満足気にコトリと瓶を置いて言った。
「好きなだけ見てて良い。どうせこの仕事、数時間かかるだろうからな」
街の光から一旦男の人へ目線を戻すと、彼は既にパソコン画面に集中していた。
私がじーっと見つめていると、彼はヘッドホンを片耳に当てながら横目で私を一瞥した。
「……俺だろーが街だろーが好きなだけ見るのは自由だけどよ…仕事の邪魔したら、まじで怒るからな」
「は、はいっ!」
私は慌てて青い瓶へと目線を落とした。
やっぱりこの人は何というか、まだ少し怖いな。
顔立ちが黒龍神に似ているような気がしたんだけど、とちらりと窺い見れば、彼はもうキーボードを叩いてアンテナ調整をおこない始めていた。
……似てるんだけどな。
私はそろそろと立ち上がって、屋上の柵の方まで歩いた。
どれくらい時間が経っただろう。
天体望遠鏡で北極星を探したし、月面に兎も探した。
それに飽きたら、少しだけイーヴィルさんを観察したりもした。
彼はずーっと何かの音を拾ってるみたいで、ちっとも動いてくれなかった。
それにも飽きて、私は香港の街を眺めた。
それはまるで、蛍の群集のような。
「上に星空。下にも星空」
そっと呟くと、私の言葉はふたつの星空に吸い込まれていった。
こんなに綺麗な景色があるなんて知らなかった。
ちゃりっと音を立てて金色の鎖を持ち上げれば、ライトを反射してカメオが艶やかに輝いた。
(あなたにも見せてあげたかったな、黒龍神)
揺れるカメオを見つめていると、その表面に誰かの影が映った。
振り返れば、長身の男の人が伸びをしながらこちらに歩いてくるところだった。
「終わった」
報告するように呟く彼に、私は頭を下げた。
「お疲れ様です」
私の隣に来た男の人は、煙草を咥えながら柵に寄りかかった。
「外の空気は吸えたか?」
「はい。いっぱい吸い込みました」
「少しは気分転換になったか?」
「はい。とても素敵な気分です」
力強く頷くと、彼は私をじっと見つめ口を開いた。
「…そういや、まだ感想聞いてなかったな」
「はい?」
首を傾げれば、男の人は香港の街へ目を向けた。
「この街は、どうだ?」
彼の紅い瞳には、不思議な光が瞬いていた。
きょとんとする私に彼はまた言う。
「おまえには、この街が如何見える。ラビエール・ホワイト」
ああ、と手を打った。
私はにっこりする。
「私はこの街が好きになりました」
相手が盛大にむせた。
心底意外そうに、彼は目を白黒させる。
「な、…なに」
え、私何か変なこと言いました?
よくわからなかったけれど、私はうっとりと夜景に目を移して言った。
「この景色にはきっと、何百億ドルだって足りないくらい価値があります。私、感動しました。この街は綺麗です。それに、イーヴィルさん達みたいに親切な方々もいますし、……私は」
小さく息を吸って、夜景から星空を仰いだ。
「私はこの街を、一生忘れません」
かなりの間があった。
だいぶ静かなので、眉をひそめて隣の男の人を見上げて聞いた。
「………あのう、私の話…聞いてます?」
「聞こえてる」
腕組みして、彼は唸った。
何というか、彼はとても複雑そうな顔をしていた。
ああそうか、と気づく。
そりゃ、すぐ孤児院に引き渡すような小娘にこんなこと言われたら困るだろう。
私は慌てて手を振った。
「えっと、そんな深い意味はありませんよ?」
私の言葉に彼はしばし私を眺めていたが、やがて言った。
「やはり変な奴だ。この街が綺麗で、俺達が親切だなんて、な」
「?」
「まあ、いい。それを聞いて……少し安心した」
ぽつりとそう呟いて、彼はふっと煙を吐き出した。
一体、何を心配していたのだろう。
私には、彼がさっぱりわからない。
と、男の人は煙草をもみ消して、私に向き直った。
「あのよ、『上に星空。下にも星空』って何だ?」
私は目を丸くした。
『あれれ? 如何して私の独り言…』
彼は首にかけた黒いヘッドホンをとんとんと示した。
あ、成程。
あんな小さな音波でも拾っちゃうのか。
私は答えた。
「ほら、この景色。まるでふたつの空に挟まれてるみたいです」
彼は私の示す本物の空と香港の夜景を順に見て、納得したようにひとつ頷いた。
「成程な。そんな見方もあんのか」
イーヴィルさんはしみじみと夜景を見つめていた。
私は首を傾げる。
彼は、そんなふうには見ていなかったのだろうか。
不思議だ。
ふと我に帰ったように男の人は灰色髪をはらって、ぶっきらぼうに言った。
「もう充分休んだだろう?」
「へ? ……あっ、はい!」
「…正直、てめぇにこんなこと言うのは如何なものかと思うんだが。麻桐の意向でな」
迷うように彼は再びあの複雑そうな顔をした。
私は思わず身構える。
一体、何を言われるのだろう。
予想できてしまうからこそ、心臓がバクバクと跳ね回っていた。
一拍置いて、イーヴィルさんは私にこう尋ねてきた。
「俺達の仕事、手伝えるか??」
は?
私はあまりに見当違いな問いに滑った。
何もないところなのに、全力ですっ転びそうになる。
仕事??
「私を孤児院に送るのではないんですか!?」
彼は面食らったように私の言葉を反復した。
「孤児院だと?? ……何の話だそれは」
ありゃりゃりゃ??
私は困惑する。
相手は長く長く溜め息をついた後、きゅっと眉をつり上げた。
「一体何をびくびくしているのかと思えば、そんなことか。馬鹿かてめぇ。こんだけ俺達の外見的特徴、社内構造、書類内容、その他諸々の情報を何の惜しみもなく晒した人間を、今さら手放すかよ。孤児院? そんなとこに捨てるか! 暴露されたらたまったもんじゃねえ」
「わっ、わっ私、口固いですけど! むぐっ?」
変なところで律儀に言い返す私の唇に人差し指を押し当てて、イーヴィルさんは言った。
「口固い固くない問題じゃねえ。てめぇ、知らない誰かに拉致られて拷問されて情報吐かされた挙句、海にバラバラで沈められたいのか?」
「そっ、それは嫌です、とっても嫌です!」
「じゃ、大人しくしばらく俺達のところ(此処)に居候するこった」
そう宣言した後、彼は窺うように私を見て尋ねた。
「…別に、この街も俺達も、嫌じゃねぇんだろ?」
こっくりと頷けば、イーヴィルさんは私の唇から人差し指を離してぼそりと言った。
「決まりだな。少しだけ手伝ってくれれば良い。人権は保証する。……身の安全も」
私は眉尻を下げて、びくびくと手の中の瓶を握り締める。
「あの…私、知らない誰かに誘拐されて海に沈められちゃうほど悪いこと、するのでしょうか……??」
正直そんな話、何処かの刑事ドラマとかマフィア映画とかでしか見たことがない。
如何してこの男の人がそんな話を引き合いに出すのか、私にはまるで理解ができなかった。
これではまるで、彼が刑事かマフィアさんみたいではないか。
上目遣いで見上げれば、イーヴィルさんはしまったというような顔で自身の口を押さえた後、目を泳がせた。
が、それも一瞬のこと、彼は肩を竦めて普通に言った。
「さっきのは例え話…言葉のアヤだ。忘れろ」
「…はぁ……?」
「外は危ねぇってことを端的に伝えたかっただけだ」
もごもごと言った後、取り繕うように男の人は私の手の中の瓶を見て話題を移した。
「ところで、飲まねぇのかよそれ」
「ふぇ? あ、飲みます」
んしょっと力を加えた途端、ぱぁんと蓋が飛んで溢れ出した泡が両手を濡らした。
「あっわわわわわ……」
慌てる私を見て、イーヴィルさんは呆れた。
「ったく、何やってんだか。ずっと飲まねぇで動き回るからそうなるんだ」
「すっ、すみませ…」
なおも溢れ出す炭酸をおたおたと口に含めば、甘さと爽快さが駆けていく。
必死で対処に追われていると、男の人はいつの間に取り出したのか、ハンカチで丁寧に私の手首を拭きながら溜め息をついた。
「手のかかる小娘だ、ラビエール・ホワイト」
言葉はぶっきらぼうなのに相手の手はとても優しかったから、ああ、と確信した。
直感で悟ったと言ってもいい。
この人なら大丈夫。
このシンクロニシティはきっと、私の養父のそれなのだと。
彼にされるがまま大人しく見つめる瓶の中に、私はもうひとつの星空を見つけた。
しゅぱしゅぱと甘く弾ける気泡と、それに映り込む彼の紅い瞳を。
思い出少女と星のソーダ
(おかえりなさい。夜の散歩は如何でした?)
(はいっ、麻桐さん。とっても素敵でした! 星空が3つも見えたんです!)
(……はてさて、流星群のことでしょうか??)
(馬鹿なこと言ってないで、もう寝ろガキ)
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