「子供みたいなこと言わないで!」
「ごめんなさい」
「もう二度と勝手に遊びに行かないで頂戴」
「…ごめんなさい」
「ちゃんと台詞も覚えてないじゃないの」
「ごめんなさい」
「あの場面の表情も違ったわよ」
「…ごめんなさい」
「本っ当、それでも私の子なのかしら」
「ごめんなさい」
「何!? よく聞こえない」
「…ごめんなさい、母様」
こんなこと望んでなかった。
期待が重かった。
賞を取れば取るほど、名声を手にすればするほど、息が苦しくなった。
全てが鎖のように身体を雁字搦めにして、そのうち一歩も動けなくなってしまうような気がして……とても怖かった。
でも、やめることができない。
皆の拍手が手枷に、皆の賛辞が足枷となっても、それでも……母にだけは捨てられたくないのだ。
友人を捨てた。
恋も捨てた。
子供っぽさも捨てた。
自分は、あと何を捨てれば良い…?
暗くなった舞台の裏で、ひとりの少女が膝を抱えて蹲っていた。
声も立てず、彼女は静かに静かに泣いていた。
彼女の近くには、ボロボロになった台本が半開きで落ちている。
「如何しても……覚えられないのよ母様」
しゃっくりを押し込めて、少女は呟いた。
「あたし…本当は出来損ないなの……。ねえ、あたし……母様になんか、なれない…」
遊びを奪った母。
恋を諦めさせた母。
子供であることを許してくれなかった母。
憎い、憎い母。
「でも、大好きなのよ母様」
堪えきれずに、少女は嗚咽を漏らした。
「もう母様しかいないの…あたし、……あたしは…もう何も捨てるものが……」
少女が腕に顔を埋め、再びゆるゆると涙を流した時だった。
細い指が、床の台本を音もなく拾い上げた。
「『ほんとね、自分のことわかってたって、これから如何なるか、何にもわからないものね』。ふむ、ハムレットか。随分と悲しいお話をやっているのだね」
人の声に、少女はびくりと肩を震わせた。
そんな反応お構い無しに、その人は音もなく彼女の前に立って、台本を差し出す。
「はい、どうぞ。成程、お芝居に感情を伴えるのは心が綺麗な証拠だ。こんな悲しいお話だから、君も悲しくなってしまったのだろうね」
差し出された本に、彼女は虚ろな顔を上げた。
彼女の前には美しい青年が立っていた。
さながら、御伽噺から抜け出てきたかのように。
彼の紫の瞳が、印象的だった。
「あたし、そんなんじゃ…ないの。才能ないのよ……悲しいのは、あたしが駄目な子だから……」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら少女は言った。
青年は心底驚いたように目を丸くした。
「っ……何をそんなに絶望しているのか。ねえ、君。もうそんな顔はよしなさい。辛いなら、声をあげて泣けば良い。心が壊れてしまう前に」
ゆっくりと目の前に腰を下ろす青年の姿を少女は呆然と眺めていたが、泣きながらぷっと吹き出した。
「ふふ、何かの台詞みたい。凄いこと言うのね、お兄さん……ここの舞台の人?」
少女の顔を見て、青年は安心したように息をついた。
「おや、やっと笑ってくれた。否、生憎違うんだ僕は」
てっきり舞台関係の人かと思っていた彼女は、少し首を傾げる。
少女は小さく唸った。
「ふうん…」
ひょっとしたら誰かの付き人なのかもしれない、と彼女はアテをつけた。
そんなことを詳しく詮索するのは、子供っぽいのだった。
子供っぽいと怒られるから、少女は青年の事情など聞かない。
代わりに少女は、きゅっと膝を抱く両の手に力を込めた。
「お兄さん、ハムレットを知ってるのね」
前に座る青年はふっと笑った。
「シェイクスピアの4大悲劇のひとつ、だね。僕はあまり好きではない」
「……どう、して?」
少女が尋ねると、青年はゆっくりと手を伸ばした。
少女の頬に触れ、親指で彼女の目尻に溜まった涙を優しく拭い取る。
彼は言った。
「妹が死ぬからだよ」
少女は瞬きをする。
「妹って、オフィーリアのこと??」
「そう」
青年は嫌悪するように顔を顰めた。
「言ってしまえば、ハムレットが憎い。侍従長のポローニアスを誤って刺殺し、その娘オフィーリアは悲しみに狂い、溺死してしまう。ハムレットの恋人が、だよ?そして、仇を討とうとしたオフィーリアの兄もまた、剣術で敗れる。……救いのない悲劇だね」
少女は呟いた。
「『残酷に振る舞うのも、ため思えばこそなのです』」
彼女は寂しげに微笑んで続ける。
「ハムレットの言葉」
「偽善だ」
青年は、溜め息と共にそう言った。
「愛しい者すら守れない人間を、僕は許すことができない。愛しい者に残酷な仕打ちをする奴は、…悪魔だよ」
青年の言葉に、少女の肩がびくりと跳ねた。
少女の頭の中を駆けたのは、憎くて愛しい母。
じんわりと視界が歪んだ。
「あたしは…価値のある人が価値のない人に酷いことをするのは、当然だと思う。天秤にかけて、重い方が重要視される……命は平等じゃないのよ…」
例えば、母と娘のように。
傾いた天秤。
大女優と見習い。
見習いは大女優のために全てを諦めるのが、当然。
無価値。
ダイヤモンドとガラス玉。
傾くのは……。
少女の瞳から思いが溢れ出した。
その様子を見て、不意に、青年はにんまりと笑った。
とても嬉しそうだった。
「嗚呼、似ているなぁ……」
彼は少女の頭を撫でた。
そんなこと、生まれてこの方されたことのない少女は、戸惑ったように青年を見た。
「え? 似てるって…何が……??」
「君が」
「…何に?」
「僕の妹に」
青年は優しげに紫眼を細めた。
話を聞くに、彼は銀髪碧眼の妹と生き別れてしまったのだという。
彼は愛おしげに語った。
「僕の妹は優しい子でね、誰でも心の底から愛してくれたよ。相手が怒れば自分の所為だと謝るし、相手が泣けば自分の所為だと一緒に泣いた。弱くて賢くて愚かな可愛い僕の妹……守ると決めたのに、彼女は時間を超えて世界の狭間で迷子になってしまった。皇帝サンの所為だよ、全く。皇帝サンは世界にしか興味がないからなぁ…」
如何やら彼は、そのコウテイサンに呆れているようだ。
彼の言っていることが、彼女にはイマイチよくわからない。
しかし、繰り返すが少女は青年のことなど聞かない。
子供っぽいのはいけないことなのだ。
罪なのだ。
少女は目にいっぱい涙を浮かべながら言った。
「あたしは、あなたの妹さんに…似てないと思う……」
青年は首を傾げた。
「何故?」
「あたし、そんな素直な子じゃないもの。全部…演技なの」
「……」
未だ少女の頭に手を置いたまま、青年はさらに首を傾げた。
「その涙も演技なの?」
「……それは…」
「先程の言葉全て?」
「……それは…」
「その絶望も?」
「……!」
少女は愕然と青年を見る。
青年はやはり笑っていた。
しばらくの沈黙の後、彼は言った。
「ねえ、君は女優さんなのだろう?」
違う、とは言えなかった。
彼女の沈黙を肯定と見て取ったのか、青年は続けた。
「僕の妹、演じら(や)れるかい??」
「あなたの、妹…?」
少女はきょとんとした。
青年はゆっくりと立ち上がって、空っぽの舞台を指差した。
「絶望は忘却で癒すものさ。舞台、仮面、偽りの自分、……演技とは、なかなかに素晴らしいものだと思う。誰もいないのだし、少しくらい舞台を借り切っても罰は当たらないだろう。おいで」
魂を抜かれたような気分で、少女は青年に従った。
逆らう理由など、何処にもなかった。
ふたつのシルエットが向かい合うように舞台の上に立つ。
青年はにんまりと笑った。
「嗚呼、どうせなら救いのない悲劇が良いな。少し考える時間をあげよう。例えば、僕の妹は母に憎まれ、嫌われ、蔑まれている。しかし彼女は、そんな母も僕も愛している。けれどある日、限界が来てしまった。君はもう母の暴力に耐えることができない。……さて、そんな背景だが」
「……やって、みるわ」
少女は思案するように目を泳がせた。
青年は唯、面白がるように目の前の少女を眺め回している。
「聞いてもいい?」
少女は窺うように青年の顔を見やった。
彼は恭しく答えた。
「何なりと」
「妹さんは、叫んだり喚いたりする?」
「いいや」
「どれくらいの年?」
「僕と9つ離れているよ」
「ふうん……」
少女は頷いた。
その表情は先程のか弱い少女ではなく、舞台上の役者のそれになっていた。
「最後にひとつ」
「何かな??」
「妹さんの名前はなあに?」
「オフィーリア」
青年は即答した。
心なしか、彼の笑顔は皮肉めいていた。
「僕の妹はオフィーリアで良いよ。僕は君の兄、レアティーズ」
「悲劇、ね」
少女は微かに呟いて、そしてゆっくりと表情を変えた。
青年の前で少女は笑った。
その笑顔は、馬鹿な子犬みたいに無邪気だった。
「おにーちゃん」
彼女は言った。
青年は僅かに動揺したようだったが、すぐに笑顔を返した。
「…家に帰ろう、オフィーリア。風邪を引いてしまうよ」
如何やらこの舞台は外のようだった。
外にいる妹はふるふると首を振る。
「わたし、ここにいたい」
妹は遥か頭上を指差した。
「ね、ほらあれ。お星さまがあるの。きれーだねっ」
彼女の先には真っ暗な舞台照明しかないにもかかわらず、その様子はまるで本物の夕闇に沈む虚空を見ているかのようだった。
素晴らしい演技力である。
兄は妹の隣に腰を下ろした。
「オフィーリア」
「ん、なあに?」
妹は嬉しそうに兄の方を向いた。
兄の紫眼は哀しい光を帯びていた。
まるで、過ぎてしまった日をやり直したがっているかのようだった。
「家に帰ろう?」
彼は優しくそう言った。
促すように、頼み込むように……そう言った。
急激に、妹の表情が変わった。
笑顔は消え、眉尻が下がる。
「あっ、あのねっ!」
困ったように妹が笑った。
否、既にその顔は笑顔と呼べるものではないけれど。
「あのねっ、お星さまを100個数えるの! そしたら願いごとが叶うんだって! だからね、わたし…」
「……」
「わたしは、家に帰らないの」
「……」
言い訳を必死で探しているかのように、妹の目があちこちに揺れた。
兄はゆっくりと妹の冷えた頬に手を当てた。
「ひっ…」
妹の目が見る間に怯えたものになる。
彼女は怯えていた。
家に帰ることに怯えていた。
兄は妹をそのまま引き寄せた。
まるで本物の妹にするように、彼は彼女を抱き締めた。
「ごめんね」
兄が謝った。
一瞬、妹は少女に戻って驚いたように彼を横目で見る。
少女の肩に顔を埋めてその表情は窺い知れなかったが、如何やら彼は歯を食い縛っているようだった。
苦痛に耐えるかのように、彼は小さく呻いた。
彼女は驚きのために終ぞ気づかなかったが、耳をついた彼の胸からは何の音もしなかった。
少女は妹役に戻って、おずおずと尋ねた。
「……どぉして、おにーちゃんが謝るの…?」
そろそろと妹が兄の背に腕を回すと、彼は囁くように言った。
「僕が、母さんを止めることができないから」
罪を告白するかのように、彼は整った顔を歪めた。
……演技とは、到底思えなかった。
その狂気に触れそうな表情に、妹は気づくことがない。
「おにーちゃんは、なんにも悪くないよ」
妹は言った。
「オカーサンも、悪くない……。…あのね、だから……だから、謝らなくていーんだよ?」
兄は妹を離した。
兄の前で、妹は笑っていた。
諦め切ったような、疲れたような笑顔だった。
兄は過去の思い出を繰り返すように聞いた。
「ねえ、オフィーリア。僕と一緒に逃げようか? 何処までも遠くに」
母さんから逃げようか、と彼は言った。
妹は涙を零した。
「嫌」
駄々をこねるように、彼女は首を横に振る。
必死な形相だった。
「嫌、…嫌! オカーサンを、おいていけない」
兄は微かに頷いた。
如何やら少女の演技は、此処まで全て正しかったのだろう。
正しく彼の妹を演じているのだろう。
兄は知っている。
妹は母と共にいれないと。
しかし妹は母を見捨てることを良しとしない。
袋小路。悲劇。
兄は青年に戻った。
「………聞きたいことがあったんだ。君が僕の前から消えてしまってから、ずっと考えてた。あの時、君は母さんと共にいると言い、僕はそれに従った。僕はそれ以上何も言わなかった。でも、もし……もし僕があの時こう聞いたら、君は如何したのかなって…」
青年は舞台上の妹に尋ねた。
過去の彼女に、聞いてみた。
「『それじゃあ、ねえオフィーリア。僕と母さん、どちらが生きて、どちらが死ぬべきなのかな?』」
妹役も忘れて、少女は仰天した。
「ええッ!?」
自分は一体何を聞かれているのかと、一瞬頭が真っ白になる。
暗い舞台上。
向かい合う少女と青年。
二者択一の質問。
青年はもはや兄を演じてなどいなく、面白がるように紫眼を光らせてにんまりと笑っていた。
「答えてよ、オフィーリア」
一体彼は何なのか。
少女は思った。
今更ながら、彼の不明点に疑問を抱く。
彼は誰なのか。
自分に何を演じさ(やら)せているのか。
これは、本当にお芝居なのか?
それとも……。
少女は妹役の表情を引っ張り出し、一生懸命考えた。
彼の望む答えとは何なのか。
そもそも、彼の意図がわからない。
必死に頭を回転させる。
が、狂い始めた糸巻きは空回りを繰り返し、思考をこじらせるばかりだ。
一体、その『妹』とやらは彼に何と答えるのだろう。
少女にはそれが皆目、見当もつかなかった。
つい弱気になり、少女はがたがた震えながら小さな声で答えた。
「『どっちも、生きて欲しい』」
「ふむ、成程ね」
青年はそう言った。
そう言っただけだった。
暗い舞台上。
向かい合う青年と妹役だった少女。
発せられた応答。
少女はもはや妹を演じてなどいなく、不安がるように碧眼を揺らして呟いた。
「不正解なのね、レアティーズ」
青年は微かに笑い、ぱちぱちと軽く拍手をした。
「君の演技は素晴らしかったよ。君は妹だった。実に素晴らしい。不正解だなんてとんでもない。君は確かに、最もあり得る正解を導き出したわけだ」
「あり得る、正解……」
呆然とする少女に、青年は笑みを深くした。
「最もありふれた正解、と言っても良いだろう。母と兄を両方愛する妹なら、確実にそう答えた。よって正解だ。大正解。きっと君は素晴らしい女優になるだろう」
「……。……でも、あなたとても不満そうだわ」
少女がそう言うと、彼は微かに肩を竦めた。
「君は確かに妹だったけれど、『僕の妹』ではなかったから。少し残念だったのだよ。君でふたり目だけれど、やはり違った」
「……」
「似ていたんだけどなぁ、その青い目も。残念だ。とても惜しい。もっと絶望してくれていたら良かったのだけれど。深い深い絶望の闇に溺れて……まあ、それは唯の自己満足(エゴ)か」
熱に浮かされたように口走っていた青年は、不意にころっと表情を変え、にっこりと優しげに少女に微笑みかけた。
「時に、君は何というのだろう?」
「…え?」
「名前」
にこにこと彼は笑みを絶やさない。
少女は得体の知れない青年にぎこちなく笑い、答える。
「マーガレット。……ううん、本名はアンセミス」
「そう、アンセミスちゃん。これ、あげるね。良い演技を見せてくれたお礼」
彼は恭しく彼女の手にそれを握らせた。
赤い赤い、御守り。
少女は物珍しげに赤いコインを眺めた。
「へえ、…とっても綺麗ね」
「君の方が綺麗だけどね。大切におし」
少女を残し、青年は歩き出す。
その背をぼんやりと見つめて、少女は声をかけた。
「ねえ!」
青年はふらりと立ち止まる。
「何かな?」
「あなたの妹さんなら、何て答えたの??」
さっきの質問に、と少女は彼の背中に尋ねた。
青年は再び歩き出す。
彼が振り返ることはなかった。
舞台袖の闇に溶け込みながら、青年はその答えをくれた。
「『妹(わたし)が死ねば良いと思う』」
残響を残し、青年の姿はかき消えた。
何か最近、僕の周りが暗い話ばかり生産するものですから、昔の病んでる話を引っ張り出してみた次第です。
こう、もやもやっとする話ばかり読むと、もやもやっと複雑な気持ちになりますよね……スッキリしたいよ。
読むとしたらスカッとするような明るい話が好きです(^^)
今は不幸せでもその先に幸せが待っているような、そんな話が好きです。
根が暗いものですから、どろどろグチャグチャした話を読んでしまうと引きずるんですよね僕。
昨日は人知れず落ち込んでたり。
需要と供給が釣り合いませんよう!
モヤっと!
モヤっとモヤっと!
モヤっと!
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