赤、青、黄。
水玉模様、ストライプにハート柄。
包装紙、リボン、花飾り……。
ショーウインドウの中の煌びやかなそれらを目の隅に捉えて、嗚呼またこの季節がやってきたのか、などと思う。
確か、去年は総量過多の菓子に不貞腐れた少女をなだめたような気がする。
くしゃくしゃになったマフィンの袋を背中に隠して、子虎のように俺を睨み上げていたあいつの顔を思い出し、俺は人知れず口元を緩めた。
誘われるように店頭にずらずらと並ぶ数多の箱を眺めれば、それは買ってくれと強請るように俺を見上げてきた。
(返すのは1ヶ月後、なんだがな……)
今年のラビエールは、上機嫌でホールのチョコレートケーキを作って、皆に振る舞っていた。
個別に渡すことは、去年の経験からやめにしたのだろう。
切り分けたとろりとしたチョコレートのコーティングケーキに夢憑やイリスや、あの鐡ですら喜んでいたのは記憶に新しい。
大人組には甘さ控えめの紅茶シフォンケーキ。
甘ったるいのが苦手な身としては、それはとても有り難いことだった。
何より、少女が笑顔のまま平和に過ぎていくこの期間に脱力したものだ。
時に、この少女の不機嫌ほど厄介なものはない。
「しっかし……よくもまあ、こんなに飾って…」
女性消費者狙いであろう可愛らしいラッピングに、諦めともつかないような奇妙な感心を覚えた。
男の俺には、どうもこの不合理な外装の意味が理解できない。
一口で胃の中に消えてしまうものに、どうしてここまで手をかけるのだろうか。
思わず顎に手を添えて小さく唸ると、またひとつ、女の集団がチョコレートの箱を購入していった。
「ねえねえ、あそこの人カッコ良くない?」
不意に耳に届く囁き声に、我に帰った。
「チョコレート好きなのかな? 逆チョコ??」
「え、どこどこ?」
「ほら、ショーウインドウの前に立ってる男の人!」
まるで悪さを見つかった子供のような心境でぎくりとして顔を上げると、若い女ふたりが店の入り口でクスクスひそひそ話し込んでいるのが窺えた。
目が合った途端、そいつらはぱぁっと顔を輝かせる。
「きゃぁ~、こっち見た!」
「っ!」
目を逸らす。
回れ右。
逃げる。
俺は白いマフラーを押え、脱兎の如く並ぶ店の前を駆け抜けていた。
何とも言えず、腹立たしい。
(くっそ…悪い事したならいざ知らず、……何で逃げなきゃなんねーんだよ)
柱に手をついてぜえはあ喘ぎながら、俺はぐったりとした。
他人の好奇の目に、油断も隙もあったもんじゃない。
そもそも、何で俺はバレンタイン商戦最中の店々を眺めていたのだろう。
会社に帰る途中だろうが。
もう帰ろうそうしよう。
そう思い立ち、俺は街灯がちらほら点き始める香港の街を早足で歩き出した。
が、数メートル進めばまたあの鮮やかな包装紙の群れである。
どの店もこの店も、ショーウインドウはバレンタイン一色だった。
そして、否応無く目に入る菓子の箱は女からすれば『可愛い』に当て嵌まって、気づけばまた足を止めてしまっていた。
(あいつが好きそうだよな、こういうの)
ぽつりとそんなことを思って、宝石箱のような小箱を手に取った。
引き出し仕様の三つの段にちまちまとチョコレートが並んでいて、摘みを引けば飾り絵が開閉する仕組みである。
有名な菓子ブランドなのか、店内にいる人間は圧倒的に少なかった。
ま、普通入らねぇよな。
余程の金持ちか、はたまたヤバい仕事の奴でもない限りは。
どちらかと言えば明らかに後者である俺にとって、空気の違う店に入るのは造作もないことだった。
問題なのは、この小箱の外装が可愛過ぎる件だ。
レジ店員の痛々しい目を想像し、俺は溜め息混じりに首を振った。
残念なことに、俺は金髪のふわふわした少女ではなく、長身に黒スーツの男である。
先程の消費者女達の言葉を思い出し、俺は小箱片手にその場でこめかみを押え、硬直するのだった。
社長室の三人掛けソファの隅でうつらうつらしていた金髪の少女の耳に、扉を閉める音が届いた。
夢うつつに顔を上げる彼女は、入ってきた男の姿を見て取ってふにゃりと笑った。
「あ、…お疲れ様です……」
男は歩きながら軽く手を振って応じ、訝しげに空の社長椅子を見やった。
「麻桐は??」
ラビエールはとろーんとしたまま答えた。
「偉い方とお食事だと聞きました」
「ああ、あの交渉か……」
納得したように頷いて、イーヴィルは少女の隣に腰掛けた。
ラビはイーヴィルに笑いかける。
「今日はもう戻られないそうなので、お仕事あがって良いですよ、だそうですイーヴィルさん」
彼は首を傾げた。
「眠そうだなラビエール。如何してお前はまだ残ってんだよ?」
ラビは目を瞬かせて、彼の顔を見上げた。
「だって、イーヴィルさんにそう伝えなきゃって」
どうやらこの少女、その一言を伝えるために社長室に留まっていたらしい。
イーヴィルの紅い左目の中で、仄かな光がちらついた。
「全く…ガキはもう寝る時間だってのによ。わざわざ待っているとは」
あまり無理すんな、と大きな手が少女の金髪をくしゃりと撫でた。
しばし彼女の髪を掻き混ぜた後、彼はぽんと何気無く少女の膝の上に何かを置いて言った。
「やる」
「ふぇ??」
彼の為すがまま、大人しい猫のように撫でられていたラビエールは、きょとんと自身の膝上の小箱を見下ろし間抜けな声を漏らした。
「えっと…これは……?」
イーヴィルは肩を竦め、しれっと言った。
「ご褒美だ」
「ご褒美、って……え、ちょ…えええ!?」
弾かれるように彼女は覚醒し、俄かに慌て出した。
「イーヴィルさん、これ! これ知ってます! 凄く高いお菓子じゃないですか! 駄目ですよ受け取れませんこんな高価なもの…ッ」
煌めく外装を恐れ多いと言わんばかりに掲げてあわあわするラビの様子に、イーヴィルは若干呆れ顔をした。
「菓子如きで何をそんな。所詮、この手の商戦菓子は外装に値段かけてんだよ。中身は唯のチョコレートだ、びびるな」
よくよく聞けば夢のないことを言って、イーヴィルはソファで足を組んだ。
ラビエールは困惑したように彼の顔とアンティークのような小箱を交互に見て、窺うように聞いた。
「でも、だって…どうして……」
未だ、神に捧げる供物のように両手で小箱を掲げ持つ彼女に、イーヴィルは平然と言った。
「てめぇは覚えてないかもしれないが、ライターを届けてくれた時の礼。それか日頃のてめぇのおこないに対する礼、といったところか。……それで納得できねぇなら、逆チョコってことにしとけ」
「ぎゃ、ぎゃくちょこ…」
イーヴィルの言葉を反復して、ラビは呆然としたまま小箱を膝の上に下ろした。
しばらく小箱を撫でていた少女は、頬を上気させたままイーヴィルを窺うように見た。
「本当に、こんな素敵なものを頂いて良いのでしょうか…?」
「他に受け取る奴いねーだろうが」
紅い目の中で可笑しそうな光を瞬かせ、イーヴィルは小箱の引き出しをひとつ摘まんで引いた。
ぱたんと飾り絵が開閉し、並ぶ色鮮やかなコーティングチョコレートを見る。
途端に、ラビエールは無邪気に目を輝かせた。
「わああ! 可愛いです~!」
声をあげ手放しで喜ぶ少女は先程とは一変、年相応の子供に見えた。
彼女はとてもわかりやすい人間だった。
如何やら、彼の知る彼女の好みとその箱は、ぴたりと一致したらしい。
イーヴィルの指が赤い花型のチョコを摘み上げて相手の口に差し出すと、ラビは名残惜しげに感想を述べた。
「こんなに可愛いと、食べちゃうのが勿体無いですねぇ! 私、ぎゃくちょこなんて初めてです!とってもとっても嬉しいですっ!」
「それは良かったな」
「大切に、ずーっととっておきますっ!」
ひどく真剣に力説する少女に、彼はからかうように口を開いた。
「食わねぇと溶けるぞ?」
「わっ、わっ、やっぱりすぐ食べますっ!」
大慌てで、ラビはぱくりと彼の指からチョコレートを受け取った。
もくもくと幸せそうに目を細めて咀嚼する少女を眺め、イーヴィルの目元を優しくした。
ラビエールはうっとりと両手で頬を押えて呟いた。
「美味しぃ…!」
「良かったな」
再びそう相槌を打って、彼はまたチョコレートを摘み上げた。ラビエールも求めるようにそっと唇を開く。
親鳥が子に餌を運ぶように、少女が満足するまでそれは静かに続くのだった。
たまにはバレンタイン商戦に引っ掛かってみるのも
(あのお店とっても可愛いんですけど、入るの勇気がいるんですよねぇ)
(……。………そうだな)
(ん、あれ? そういえば、イーヴィルさんはあのお店に入っ)
(想像すんな)
(へ??)
(俺がこの可愛らしい箱を買う場面を想像するんじゃねえ……ッ!)
(光る彼の左目は、かなり必死でした)
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