「ねーねー、こくりゅうしん」
そんな声がして、私は筆を止めた。
きょとんと見下ろすと、私の仕事机の下に小さな金色が揺れていた。
窺うような薄青い目に、私の姿が映り込んでいる。
目の中の男が微笑した。
「何だい、ラビエール?」
私の仕事机の下で遊んでいたラビは膝の上にひょっこりと顔を出し、しばし私の顔を凝視していた。
が、困ったような顔をして首を振った。
「や、やっぱ何でもないっ!」
ぱっと逃げるように駆け出して、彼女は廊下で掃除をしていた伯爵の青年に飛びついた。
「??」
ちーの腰に抱きつくラビを眺め、私は首を傾げた。はて、私は彼女に何かしただろうか。
此処最近、こんなやり取りが数度に渡って続いていた。
ねーねー、こくりゅうしん。
何だい、ラビエール。
なっ、何でもない。
これは何かあるだろう。
私の視線の先で幼い少女の金髪をなだめるように撫でていたちーは、私と目が合うと軽く肩を竦めてみせた。
彼の無言の気にするなという慰めに、私は渋々納得し、仕事に戻るしかなかった。
おやつ時になった。
早々にちーの作ったレモンパイを食べ終えた私の子は、テーブル越しにそわそわと私の顔を窺っていた。
たつ白い湯気をひと吹きして、私は彼女の視線を感じながら紅茶を一口すする。
ラビが口を開いた。
「あのね、こくりゅうしん…」
鈴を転がすような声に、私は苦笑してティーカップを置いた。
「如何したの、ラビエール?」
そっと手を伸ばしながら目線を合わせてやると、何故だかラビはぎくりと身を引いた。
嗚呼、またである。
「どうもしないっ!」
大慌てでそんなことを言って、ラビは椅子から飛び降りぱたぱたと駆けていく。
私はぽかんとしたまま彼女の背中を見送った。
未だ、触れることのなかった手が、空中を泳いでいる。
ちょうど部屋に入ろうとしていた中佐の女性の腰にきつく抱きついて、ラビは窺うように私をちらちらと見た。
ラビを抱き上げながら、トワイライトは訝しげな目でテーブルの私を見やる。
私は引き攣った笑みを浮かべてジト目のトワイライトから目を逸らし、紅茶をすすった。
軽く傷ついた。
「……。…………なぁ、ちー」
ちょうどレモンパイを皿に切り分けて運んできた伯爵の青年に、私は無表情で声をかけた。
「何でしょうか、黒龍神様?」
チルッド・ブランドロワ13世は普段と変わることもなく、いつも通り生真面目に応じた。
私は肩を落とし、弱々しく尋ねた。
「私はラビに嫌われているのだろうか…??」
「何故そのような結論に至るのか、我(わたし)には皆目見当もつきません」
ちーは溜め息混じりにそんなことを言って、私の前に皿を並べた。
私は、フォーク片手になお言い募る。
「彼女のルールをおかすようなこと、しただろうか?」
ラビエールには、絶対に破ろうとしないルールがあった。
どれも不条理で、日常生活において必要のないルールだ。
部屋に入る時はノックを必ず二回すること、右足から入ること、一番隅のソファ以外座らないこと……挙げればきりがないそのルール全てが、彼女の母親が彼女に課したものであることを私は知っていた。
他人が無理にやめさせようとすると、ラビエールは恐慌し、泣き叫ぶのである。
ちーは紅茶を注ぎ足して、丁寧に答えた。
「黒龍神様はこれまで一度も、ホワイト様の決め事を脅かしたことなどございません。よって、貴方のそれは杞憂です」
「では何故」
言いかけて、私は口にしかけていたティーカップを離し、ちーを横目で見やった。
「って…こら、ちー。何か知ってるな?何か知ってるだろ??」
ちーはしれっと目線を外して言った。
「はて、何のことやら」
「そらっ惚けんなよ。こちとら『奇策部』所属だ、情報戦なめんな」
笑顔で凄んでも、青年は何処吹く風である。
「我はホワイト様の味方ですので、何も存じ上げません」
くっそ~……家主の威厳も、ラビの前では形無しか。
私は子供のようにむくれて、レモンパイにフォークを突き立てそのままかぶりつくのだった。
夜になった。
ベットに腰掛け、ナイトスタンドの光を頼りに手帳をめくっていると、枕を抱いたラビがちょこちょこと部屋に入ってきた。
「えっとね、こくりゅうしん…」
私は手帳から目を上げて、早々に小さなラビを抱き上げ捕まえた。
きょとんとする金髪の少女を向かい合うように膝の上に乗せて、私はにっこりと首を傾げた。
「何だい、ラビエール?」
ラビエールはどきりとしたのか小さな肩を跳ね上げた。逃げ出すようにのけぞって、彼女は言う。
「なな、何でもな……!?」
はたと今の状況に気づき、彼女は大きな瞳を丸くした。
私はきっちりかっちり彼女の背に腕を回して、膝の上に閉じ込めているのである。
これでは逃げること叶わない。
じわじわと赤くなる相手の顔に気づかないふりをして、私は再度問うた。
「何か用があるんだよねぇ、ラビエール??」
「あの…」
ラビはうつむいて、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あのね……」
艶やかな金髪に隠れてその表情は窺い知れなかったが、ちょっぴりのぞくその耳は赤い。
私は促すようにうん、と頷いた。
観念したのだろう。
ぎゅっと抱いた枕を手放して、ラビは白い夜着のポケットから可愛らしいラッピングを取り出した。
赤いリボンの隙間に見え隠れする透明のラッピング内のものは、恐らく菓子の類であろうと、私は憶測をつけた。
顔を上げたラビの頬は案の定、林檎のように赤かった。
「ちーちゃんと、ちょこれーとまふぃん……作ったの」
まるで悪事を白状するかのように、ラビはおずおずと言った。
ははあ、と納得した。今日はバレンタインだったのか。
道理でちーが何も教えてくれないわけである。
表情筋が著しく欠落した彼は、恐らく彼女の気持ちを汲んであげたかったのだろう。
あれは本当に気の利く青年だった。
私は確認するように首を傾げた。
「私に?」
私の問いに、彼女はこくんと頷いた。
今にも泣き出しそうな顔で、ラビは続ける。
「でもね、お砂糖の分量まちがえちゃって…それでね……あのね、焦がしちゃったの。…だからね」
きっと、不味いの。
彼女の唇がそう告げる前に、私はラッピングのリボンを解いて、ほろほろ崩れるそれを自分の口に流し込んだ。
砂糖を入れ過ぎてしまったのだろう。それはむせるほど甘くて、そして喉を焼くほど苦かった。
まるで、私と彼女が歩んできた道のりみたいに、不可解で奇妙な味がした。
決して楽に進むことのできない、悲しい道のりは。
長くて。
本当に長くて。
きっと独りでは歩けなかったんだろう。
私の急な行動に言葉も無くぽかんとするラビに、私は口の中のそれを飲み下して数度深呼吸すると、笑って告げた。
「美味しいよ」
吃驚したように、ラビは呟いた。
「ほんとう?」
「ああ」
私はきっぱりと頷いた。
ラビはさらに身を乗り出して、私の目の奥を懸命に見つめた。
「ほんとにほんとっ?」
近い相手に思わず苦笑した。
「ああ、本当。私はきっと、ドイツ中で一番幸せな男なのだろうねラビ。君の作ったお菓子を、食べれたのだから」
そう言うと、ラビはしばし沈黙した後、ふにゃりと笑った。
ひどく安心した様子から、ずっと昼間から怯えていたであろうことに考え至った。
彼女は怖かったのだろう。
母親と同様、私に突き放されることが。
私は昼に届くことのなかった手を伸ばし、小さなラビの頭を撫でた。
「ありがとう」
告げる言葉に彼女は逃げることもなく、満足げに目を細めて私の手にいつまでも撫でられているのだった。
思い出少女と焦がしたマフィン
(あのね、こくりゅうしん)
(ん、何だいラビエール?)
(その…えっと、……あのね…)
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