平たい広い空間の向こうに、霧の街の夜景が広がっている。
街の灯火はまるで星空のようだった。
「止まれ、銃使い」
はっと振り返ると、屋上の入り口に兵士を引き連れたラストが立っていた。
すぐ後ろに控えている大柄な犬面の男がバンダースナッチだろうか。
目が回るような高さの塔の縁を背に、俺達はとうとう追い詰められてしまった。
吹きすさぶ風が、俺の前髪を弄んでいく。
ラストは言った。
「白兎は如何した?」
俺は相手の顔を睨んで、はっと笑う。
「白兎? 白兎だと? ……あいつはいない。見ての通りだ」
「この状況で笑えるか」
ラストは感心したように呟いた。
俺は言った。
「随分なことするじゃねえか議長サン。赤猫を捕らえて、兵士を使って、俺を脅かそうとする。一体てめぇら何をしようとしている? セピリアはてめぇらにとって何なんだ?」
ラストがこちらに一歩近づいた。
「兵士を使ったのは申し訳なかった。しかし、それはそなたが不法に城に忍び込んだからだ。我らとて身を守る権利がある」
「身を守るにしちゃあ、随分と用意のいいことダ」
グレイが皮肉めいて言った。
ラストが訝かるようにグレイを見て、そしてゆっくりと微笑した。
何かを悟ったようだった。
「如何やらそなたの友人は、私の話を立ち聞きしていたようだな銃使い。行儀の悪いことだ。彼の教育は如何なっている」
「裏切るてめぇに言われたくねえな。てめぇの親の顔が見てみてぇ…」
俺が言うと、ラストの後ろにいた大柄な男が牙をむいて唸った。
「貴様、ラストに向かって何たる無礼! 口を慎め!」
「いい、バンダースナッチ。言わせてやれ」
男を押さえ、ラストは溜め息をつく。
その態度に俺の腑が急速に煮えくり返った。
一瞬のうちに引かれた引き金の数に合わせて、銃が火を噴いた。
ラストは平然と何かを振り払うように左手を動かす。
ラストの前に出現した半透明の赤い壁に当たって、俺の銃弾が空中で停止した。
ラストは「ほう」と言って、自分の眉間と心臓の前で停止した弾丸達を眺める。
「素晴らしい腕だな、テオドア。…しかし、この状況で私は殺せぬよ。残念だったな」
「くっ…」
俺は銃を構えたまま後退りをした。
俺の踵が塔の終わりに触れる。
ちらと一瞥した先に、何もかも飲み込むような闇と、目眩がするような高さを見た。
隣りを見ると、グレイも同じような状態だった。
弾丸を叩き落としてラストは高らかに言った。
「さて、選ばせてやろう。このまま塔から転落して死ぬか、大人しく捕まるかだ。どちらでも好きな方を選ぶがいい」
俺は必死で辺りに目を走らせる。
何かこの状況を打開できるものはないだろうか。
何でも良い。
時間を引き延ばせるならば。
まだか。
セピリアは何をしているんだ。
男の冷たく光る目を見つめた。
相手も無表情で俺の目を見つめ返す。
しばらく風の音だけが響いていた。
いや、………風の音だけではない。
俺は目を閉じて耳を澄ませる。
この音は聞いたことがあった。
ピアノの音だ。
俺は目を開き、銃をしまって言った。
「答えが決まった」
ラストは言う。
「どちらか聞こうか」
「てめぇは勘違いしてる」
俺は相手の目を真っ直ぐ見て続けた。
「第3の選択肢を見つけたんだ」
言うが早いか、俺はグレイを突き落とした。
グレイは一瞬わけがわからないという顔をしたが、真後ろを見て納得したように目を閉じた。
落下するグレイが巨大な何かに飲み込まれる。
光と闇をいっしょくたにしたようなそれは、さらに拡大を続けた。
暁の光が遥か向こうの水平線から差した。
背にその暖かさが染みる。
俺は何もない虚空に両手を広げ、後ろに足を引いた。
傾く体。
ラストの目が見開かれる。
「誰かその男を止めろ!」
焦ったように喚くバンダースナッチの声を最後に、俺は塔から落下した。
すぐ下には、異世界への入り口がぽっかりと口を開けている。
塔の縁から身を乗り出し落下する俺を見下ろすラストは、信じられないと言いた気な顔をしていた。
俺は笑った。
「てめぇの思い通りにはならない…」
俺の声が届いたのか、ごうごうと鳴る風の中でラストの顔が初めて悔しげに歪んだ。
「くっ…テオドア、貴様あああぁぁぁッ!!!」
ラストの叫び声が遠のき、ばくんと俺は歪時廊に飲まれた。
まるで糸を断ち切るように外の音も映像も消失し、辺りは等しく闇に沈んだ。
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